「ぼくの学校は世界中」番外記
子連れでキャンピングカーで世界一周、四大陸、 50ヶ国、12万キロを走破した雲野さんの物語
2024年5月24日、5年にわたる世界旅を終え、日本に無事帰国した。
家族4人、アラスカで購入した1台のキャンピングカーで世界50ヵ国を巡った軌跡を、海外のキャンピングカー事情・キャンプ事情と合わせて振り返っていきたいと思う。

旅の始まりと背景
旅立ち以前は、米海軍基地日本管区統合司令部消防隊、いわゆる在日米軍基地の消防隊で、約20年間にわたり消防業務に携わっていた。消防士時代から「面白いことに挑戦する」のが大好きで、TBSの人気番組『SASUKE』に3度出場したり、アフリカ最高峰キリマンジャロ(5,895m)に登頂したり、当時住んでいた鎌倉の自宅から富士山山頂まで徒歩で往復したり、世界最大の砂漠・サハラを走るサハラマラソン(250km)に挑戦したりと、今思えばかなり無茶な遊びをしていた。
その後、結婚し、二人の息子に恵まれ、鎌倉にマイホームを構え、穏やかで充実した日々を送っていた。まさか仕事を辞め、自宅を売却し、幼い子ども(旅立ち当時、長男5歳4カ月、次男2歳9カ月)を連れて5年も世界を旅するなんて、当時は想像もしなかった。
世界旅決断のきっかけ
人生一度きり、やりたいことは今やろう!
明日が来るのは当たり前じゃない。
2018年5月15日、義父の死をきっかけに、家族の人生は大きく動き始めた。妻は20歳の時に母を亡くしており、34歳で両親を共に失ったことになる。時間とともに喪失感は和らいだように見えていたが、その年の9月某夜、「人生とは?」「将来とは?」という会話の中で、妻がふと、「鎌倉の暮らしもいいけど、もっと自然豊かな田舎暮らしがしたい」と口にした。
その頃の私は、約19年務めた消防の仕事に誇りとやりがいを感じていたものの、同じような毎日がこの先も20〜25年続くことに、どこか葛藤を抱えていた。「リセットボタンを押すなら今しかない」──そんな声が心に響いた。「仕事を辞めて、家を売って、家族4人で世界を旅しよう!」
こうして、5年にわたる壮大な旅が、一夜にして決まったのだった。
この話だけ聞けば、「突拍子もない父の決断に振り回された家族の冒険」と映るかもしれない。しかし、その決断に至るまでのピースは、これまでの人生に散りばめられていた。バラバラだったピースが、たまたまその夜、ひとつに繋がっただけのことなのだ。

多様な世界を見せたい
旅立ち前、長男は「青空自主保育」と呼ばれる、園舎を持たない保育団体に通っていた。鎌倉の里山を拠点に、親もともに子育てに参加するスタイルで、毎月2〜3回は親が「見守り当番」として里山での遊びに同行するというものだった。
「お口はチャック、手は後ろ」──大きな怪我のリスクがない限り、極力手出し口出しをしないことが、数少ない見守りのルールだった。

子どもたちは野山を自由に駆け回り、お気に入りの場所で泥だらけになって遊び、喧嘩をしても自分たちで解決し、次の瞬間には木に登って桑の実を食べて笑っている。そんな豊かな世界が広がっていた。
「この時間が、学校に行けばチャイムで管理され、受け身の授業に変わるのか?」──そう思ったとき、現代教育への違和感が少しずつ芽生え始めていた。
世界はこんなにも広い。机の上だけで学ぶなんてもったいない。──旅に出よう!
